一万四千年の手仕事と、それぞれの時代がこの家に遺したもの。

農耕より古く、轆轤より古い器。
名の通り、撚った縄を生乾きの粘土に転がして文様をつけた。輪積みで立ち上げ、手でならし、窯ではなく野焼きで焼く。だから厚く、だから多く残った。
名高いのは紀元前三〇〇〇年頃の火焔土器。煮炊きの器に要らないはずの装飾が、口縁から炎のように立ち上がる。理由はいまだに分かっていない。
当家の蔵にはない。これからも入らない。縄文土器は博物館のもので、市場に出る正直な品は破片である。

稲と青銅と鉄が一緒に渡ってきて、器は静かになった。
水稲耕作が朝鮮半島から伝わり、金属もともに来た。弥生の土器は薄く、簡素で、簡単な轆轤で挽かれる。数百年で縄文の美意識が裏返った。
この時代の謎は銅鐸である。土の鋳型で鋳て、文様を施し、丘に埋めた。数百点が掘り出されているが、何のためのものかは分かっていない。
蔵にはない。ただし当家の銅器はすべて、この時代に渡来してから根本の変わっていない鋳造法で作られている。

仏教が国家事業になり、工芸もその寸法に合わせて大きくなった。
東大寺の大仏は七五二年に鋳造され、国中の銅をほとんど使い切った。その周りに、鍍金・漆・織・金工の工房が、それまで日本に必要のなかった規模で育つ。
余ったものは正倉院にいまも眠る。瑠璃の器、漆、螺鈿の琵琶——八世紀から封じられたまま。同種のものとして世界最古の完存する収蔵であり、当時の職人に何ができたかを我々が知っている理由である。

宮廷が美意識の輸入をやめ、自前でつくりはじめる。
八九四年に遣唐使が止まり、そこから四百年、洗練は内へ向かった。蒔絵——生漆に金銀の粉を蒔き、研ぎ出す——はこの時代に完成し、いまなお最も日本的な贅沢である。
絵巻もこの時代に生まれた。物語を横長の一続きの絵で語り、右手で繰り、左手で巻き取りながら読む。この頁がそれである。
蔵にはない。質のよい平安の漆器は博物館の品で、市場が平安と呼ぶものはまず平安ではない。




二百五十年の泰平。この家にあるもののほとんどが、ここで始まる。
平和は、金はあるが見せる手立てを許されない町人を生んだ。奢侈禁止令が絹と金を禁じたので、金は表から見えないところへ向かう——無地の着物に贅を尽くした裏地、煙草入れの緒を留める二寸の根付。
年号が創業帳のように並ぶ。高岡銅器、一六〇九年。有田の磁器、一六一六年頃——日本初。南部鉄器、一六五九年。井波の彫刻師、一七六三年。九谷、こけし、郷土玩具、祭りの面。すべて江戸である。

工芸を養っていた殿様が消え、職人は海の向こうに客を見つけた。
廃藩置県で、甲冑師・漆工・金工を数百年支えてきた庇護も消えた。彼らは輸出に転じて生き延びる。日本の座敷なら誰も望まぬほど描き込んだ薩摩焼、七宝、そして国内に市場のない大きさの牙彫。
一八七三年のウィーン、一八七六年のフィラデルフィアで西洋はそれを見て逆上した。ジャポニスムは西洋絵画を変えた。同時に、日本の工房に「外国人の思う日本らしさ」を作ることを教えた。


仕事場はまだある。親方の隣の席が空いている。
この時代、日本の工芸に劇的なことは何も起きていない。ただ弟子が来なくなった。習得に十五年かかる仕事は、新しい手のないまま二十年を越せない。
嘆きでもなく、売り文句でもない。よく出来た二十世紀の品がこの値であること、そしてこれから安くならないことの、素っ気ない理由である。
当家の品のうち、近年に作られたもの全部。多くの業者が言うより、その割合は高い。
巻の終わり