金は宝冠と指の節から薄れます。手が触れるのは、そこだから。

慶長十四年、加賀二代藩主が、新しい城下町に何かをつくらせようと考えました。七人の鋳物師を高岡に呼び、住む土地を与えます。四百年たったいまも、この町は湯を注ぎつづけている。この百年の日本の美術銅器のほとんどが、その工房から出ました。
仕事は昔から分かれています。彫刻家が土で像をつくる——原型です——そこで手を離す。その先の金属に触れないことのほうが多い。あとは鋳物工房の仕事です。型を取り、湯を注ぎ、割り出し、そこから何週間もかけて袖のひだの一本ずつを鑢と鏨で追い込んでいく。


彫刻家が原型をつくる。金属には一切触れないこともある。
工房がその原型から砂型、あるいは蝋型を取る。
湯を流す。出てきたものは灰色で、まだ何でもない。
バリを取り、鏨で細部を彫り起こす。
着色は別の職である。同じ鋳物でも、着ける人が違えば別の品になる。
ですから銅像に有名な名がついているとき、その名はたいてい原型のものであって、いまお持ちのその一体のものではありません。これは仕組みの欠陥ではなく、仕組みそのものです。名の知られた作家の作でありながら、本物のまま数百万円ではなく数万円であることの理由も、そこにあります。
それから金鍍金をかけ、あとは五十年ほど放っておく。金は高いところから減っていきます——宝冠、指の節、袖の稜。残るのは、手と布と埃がどこを通ってきたかの地図です。擦れているところは、人が手を伸ばしたところです。
見えることと、箱に書いてあることを記します。その先は書きません。





慶長十四年、前田利長が高岡に城を築き、七軒の鋳物師を城のかたわらに住まわせました。いまも金屋町と呼ばれる一帯です。(七軒がどこから来たかは、伝えによって違います。)城は六年で廃されます。鋳物の町は廃されず、いまもそこにあります。
品は日本で一点ずつ探し、出品する前に撮ります。お探しのものをお書きください。それに応えるものが入りましたら、お知らせします。
お知らせすることがある時だけお送りします。月に二度のこともあれば、何もない月もあります。
承りました。入り次第ご連絡します。