江戸へ送る安物の台所道具でした。ひとりの陶工がコーンウォールから帰ってくるまでは。

益子は嘉永六年、誰にも褒められる予定のないものからはじまりました。水甕、すり鉢、土瓶。厚くて安く、川を下って江戸の台所に入る。七十年のあいだ、それだけの町でした。
大正十三年、濱田庄司がここに居を構えます。バーナード・リーチとコーンウォールのセント・アイヴスで登り窯を築いて帰ってきたばかりでした。益子を選んだのは、名声がなかったからです。粗い土、荒い釉が四種類、そして一度も「芸術的」と呼ばれたことのない町。


鉄分と砂を多く含む地元の土。薄くも繊細にもならない。
日々使う器を、数をつくる。
柿釉、糠白釉、飴釉。手近な材料から作る釉ばかりである。
一度焼いて、それきり。民藝の目はそれ以上を求めない。
柳宗悦、河井寛次郎とともに、彼はその考えに名を与えました。民藝——芸術をつくろうとしていない人が、使うためにつくったものの美しさ。益子はその住所になります。濱田は昭和三十年に人間国宝となり、作品に銘を入れませんでした。銘を入れれば、それは器ではなく名前になる、と。
釉は土地のもので、数も多くありません。柿——鉄の柿渋色。飴。糠——籾殻の灰からとる不透明な白。そして青黒。土は砂気が強く鉄を含み、薄くは挽けません。益子の器が手にずしりとくるのはそのためで、濡れた手で掴むためにつくられたもの、という感じがします。
平成二十三年三月の地震で、町の窯はほとんど倒れました。築き直され、年二回の陶器市はいまも通りを埋めます。





東京から北へ二時間。最初の七十年、商いの中身はそれだけでした。土地の粗い土、四種類の釉、そして安くて役に立つ器を都へ送る。見に来る人はいませんでした。
品は日本で一点ずつ探し、出品する前に撮ります。お探しのものをお書きください。それに応えるものが入りましたら、お知らせします。
お知らせすることがある時だけお送りします。月に二度のこともあれば、何もない月もあります。
承りました。入り次第ご連絡します。