日本に磁器はありませんでした。ひとりの朝鮮の陶工が、白い山を見つけるまでは。

十七世紀の初めまで、この国がつくっていたのは陶器でした。磁器——白く、薄く、光を透し、叩けば澄んだ音のするもの——は中国と朝鮮から来る高価な品です。文禄・慶長の役ののち九州へ渡った陶工、日本で李参平と呼ばれる人が、有田のはずれ泉山で磁石場を見つけました。そこから、この国の磁器がはじまります。
四十年のうちに、それは輸出品になりました。明の滅亡で景徳鎮の窯が止まり、オランダ東インド会社は注文を抱えたまま品がない。その穴を有田が埋めます。積み出したのは海沿いの伊万里の港——ヨーロッパが三百年のあいだこれを「イマリ」と呼んだのは、町の名ではなく港の名をつけたからです。


泉山の陶石を砕き、水簸して白い磁土にする。
轆轤か型で成形し、乾かしてから素焼きする。
素地に呉須で藍の絵を描く。釉の下に入る色である。
施釉して千三百度で本焼き。灰色だった呉須がここで藍になる。
焼き上がった釉の上に赤・緑・金を重ね、低温でもう一度焼く。
ひとつの谷から三つの様式が出ました。染付は透明釉の下に呉須で描く、白地に藍。柿右衛門は濁手の乳白色をほとんど空けたまま残し、片隅に赤絵・緑・金をわずかに置く——マイセンもシャンティイもチェルシーも、一世代のうちにこれを写しました。金襴手は面いっぱいの赤と金。持っていることが見えなければ意味がない、という人のためのものです。
そして谷の奥に、何ひとつ売らない窯がありました。大川内山の鍋島藩窯。門を閉ざし、将軍家と諸侯への献上だけをつくり、出来の悪いものは売らずに割った。日本でもっとも抑制のきいた磁器であり、二百年のあいだ、町の人間には一枚も買えないものでした。
泉山の白い山はいまもそこにあり、いまも掘られています。四百年、続いています。





佐賀の細い谷で、その一方の端に白い山があります。元和年間に磁石が見つかった泉山です。町のほかのものは、すべてそこから続いています。窯、絵付の工房、匣鉢の破片を積み上げたトンネルの壁、磁器でできた鳥居の社。
品は日本で一点ずつ探し、出品する前に撮ります。お探しのものをお書きください。それに応えるものが入りましたら、お知らせします。
お知らせすることがある時だけお送りします。月に二度のこともあれば、何もない月もあります。
承りました。入り次第ご連絡します。