Maison Homura
地方から

瀬戸内

中国・四国 · Chūgoku · Shikoku
本州西の二つの海岸と四国

ここの二つの窯は釉を使わない。八百年使っていない。

瀬戸内
この家のために描いたもの。土地とその仕事であって、ある一つの場所の記録ではない。
この地方のこと

瀬戸内海は古い日本の幹線だった。すべて船で動いた。窯場がその位置に育ったのはそのためである。窯には土と薪と、重くて割れる品を運ぶ道が要る。

備前はその中で最も古く、最も頑固である。釉を、一度も。表面は灰から、窯のどこに置かれたかから、巻いた藁から生まれる。同じ壺を二つ入れて、違う壺が二つ出てくる。

萩は逆へ行った。柔らかく貫入の入った釉は使ううちに染み、萩の茶碗は年月で色を変える。二つは同じ主張の両端である。焼きと持ち主に、仕上げを任せる。

長い話

神のいない月

旧暦の十月は神無月という。神がみな出雲へ行ってしまうからである。出雲でだけ、その月は神在月と呼ばれる。神々は出雲大社に集まり、来る年の縁を決める。だから人はそこへ、金ではなく縁を願いに行く。

海そのものが聖だった。宮島は島の土に社を建てられぬほど神聖とされ、社は海上に脚を立てて組まれ、大鳥居は潮の中に立っている。瀬戸内を下る船乗りは讃岐の金毘羅を拝んだ。社は七百八十五段の石段の上にある。彼らは登った。

四国には海岸を巡る八十八の寺の環がある。九世紀以来、この島に生まれた僧・空海のために歩かれてきた。遍路は笠に四文字を書く。同行二人。もう一人は空海であり、死んだとは見なされていない。

道は水だった

道より先に瀬戸内海があり、何もかもがその上を動いた。都へ送る米、塩、鉄、のちには北海道まで回る北前船。海峡を押さえた者が商いを押さえる。二百年のあいだそれは村上だった。ポルトガル人が海賊と呼んだ船乗りたちで、安全な通行を売り、代を払った船の帆柱にはその旗が揚がった。

背後の山が鉄を出した。中国山地のたたらが砂鉄を鋼にし、岡山の備前は日本最大の刀工の一派に育つ。盛りには長船の町だけで数百の鍛冶が同時に槌を振るった。

萩は西の端にあり、何にも背を向けている。毛利は一六〇〇年、関ヶ原で負けた側についた結果ここへ移され、貧しく静かなまま二百六十年いた。そののち長州が——萩の藩が——幕府を倒した。

拒む窯が二つ

備前には釉薬がない。まったくない。器は登窯で十日から二週間焼かれ、表面に出るものはすべて、その器がどこに立っていたかの偶然である。肩に溶け落ちた松の灰、藁を巻いた跡の緋色、隣の器が火から庇った影。平安以来、途切れずにこのやり方である。

萩には釉がある。ただし失敗するように作ってある。土と釉の縮み方が違うので表面は細かい貫入の網になり、そこへ茶が滲みてゆく。毎日使った萩の茶碗は年を追って色が変わる。萩の七化けと呼び、それが持つ理由である。

萩の茶碗の多くは、高台に切り込みが入っている。殿様の器は疵がなければ庶民に売れなかったので、陶工が自分で疵をつけたのだ——と説明される。本当にそこから来たのかどうかはさておき、今も切り込みは入れる。

この地方の所蔵品 · 2点
備前焼
備前焼

備前焼

岡山県備前市伊部 · 六古窯のひとつ

釉薬は一滴も使いません。この色は、すべて火がつけたものです。

この一点について
萩焼
萩焼

萩焼

山口県萩市 · 慶長年間、朝鮮の陶工から

買った時点では、まだ出来上がっていません。仕上げるのは、十年かけたあなたです。

この一点について

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この地方の産地
茶陶備前備前焼締め

それぞれ「作り手」の頁に一項ずつある。

この地方が知られていること
手仕事
備前焼、萩焼、鳥取張子、阿波藍、土佐和紙
瀬戸内のレモンと鯛、讃岐うどん、藁焼き鰹
行くなら
伊部の窯の町、直島、祖谷のかずら橋
妙な話
香川は日本でいちばん小さい県で、いちばんうどんを食べる。うどん屋の数はコンビニより多い